日産・フェアレディZ
フェアレディZ(フェアレディゼット、"FAIRLADY Z")は、日産自動車が製造・販売するクーペタイプのスポーツカーである。
GT-Rと並ぶ日産を代表するフラグシップモデルで、日本を代表するスポーツカーとして幅広く知られる。初代は北米市場で大ヒットを達成。以降のモデルも主に北米市場をターゲットとした開発が行われている。スポーツカーではポルシェ・911とともに一つの車名で半世紀以上継続生産されている数少ない車種である。
日本における通称 愛称は主に略称である「Z(ゼット/ゼッド)」、北米を中心とした海外においては「DATSUN Z(ダッツンズィー)」「Z-Car(ズィーカー)」など。「フェアレディ」を冠すのは日本国内のみで、輸出向けは「DATSUN」または「NISSAN」と社名を付して呼称される。現行モデルは北米市場を含め日本国外では「NISSAN 370Z」として販売されている。
1969年に先代モデルであるオープンカーのダットサン・フェアレディに代わって発売された。
ヨーロッパ製の高級GTに匹敵するスペックと魅力あるスタイルを兼ね備えながら、格段に廉価であったことで、北米市場を中心に大ヒットした。日産のイメージリーダーカーとして、足掛け10年もの長期に渡って生産され、世界総販売台数55万台(うち日本国内販売8万台)という、当時のスポーツカーとしては空前の記録を樹立した。「ダッツン・ズィー」の愛称で親しまれ、日産自動車の輸出モデルの総称でもある「DATSUN」の名を世界に知らしめ、日産の海外進出の活路を拓いた記念碑的車両である。現在でも日本国内はもとより世界的にクラシックカーとしての人気や知名度は高い。
このモデルの開発・販売を企画したのは、1960年代当時、米国日産の社長であった片山豊である。彼はダットサンの北米市場拡販のために強力なイメージリーダーとなるモデルを求めており、イギリス製小型スポーツカーの模倣に留まる従来のダットサン・フェアレディでは、市場での競争力が不十分であり、年々厳しくなる北米の安全基準にも適合できなくなると考えていた。
片山はアメリカ市場でのニーズに適合した新しいスポーツカーの開発を要望し、1960年代中期から、腰の重い日産本社に対して熱心な働きかけを重ねた末に、当時の日産社長だった川又克二からようやく開発のゴーサインを得た。片山はアメリカ市場のニーズを見据えて日産本社の開発陣に明確なコンセプトと適切なアドバイスを与え、初代「Z」のプロデュースを主導した。片山自身はインタビューで「ジャガー・Eタイプのような車を造ってくれ」と要望を出したと述べており、初代Zのスタイリングはその期待を十分に満たすものとなった。
「Z」のスペックは高度なもので、軽量なモノコックボディに、前後輪ともストラット式サスペンションによる四輪独立懸架を備え、市場で先行するジャガー・Eタイプやポルシェ・911などに肉薄した。
搭載されたL型直列6気筒エンジンは、SOHC動弁機構を備えた2Lクラスの最新式ではあったが、素性は鋳鉄シリンダーブロックにターンフロー燃焼室を組み合わせた手堅い実用型エンジンであった。北米向け仕様は2.4Lへの排気量拡大でトルクを太らせたL24型エンジン採用でパワー対策としており、これもまた手堅い手法であり、低速域からのトルクにも富み、大排気量アメリカ車同様に実用域で扱いやすかった。ジャガーやポルシェの高性能だが複雑なパワーユニットに対して、シンプルな設計のおかげで手荒な取り扱いにも耐え、信頼性が高く整備も容易な、アメリカ市場でのユーザーニーズに合致したユニットであった。この面では、実用車向け量産エンジンをチューニングして搭載していたかつてのイギリス製スポーツカーの良き伝統を受け継いでおり、「Z」に実用型スポーツカーとしての優れた特性を与えた。
デザインは松尾良彦率いる日産自動車第1造形課・第4デザインスタジオに託され開発が始まった。この部署はスポーツカー担当部署であったものの、少量生産を前提とした小さな部署であった。メディアでは第4デザインスタジオチーフだった理由から「S30のチーフデザイナーは松尾良彦」と紹介されることが多いものの、実際は吉田章夫(ふみお)案のファストバックをベースに松尾案のフロントマスクを合わせたデザインが基本となっている。その後、1967年に田村久米雄・西川暉一・桑原二三雄の3名がスタジオ入りし、最終的な造形修正は田村が担当している。
ボディタイプは各種検討されており、松尾がS30発売以前にデザインしたロングホイールベースの2+2 (2by2)は1973年秋に実車となってシリーズに追加された。オープンエアを求める層に対しては、独立したトランクルームを持つタルガトップモデルが設計され、プロトタイプまで製作された。また、将来的な馬力向上の要求には、プレジデント用V型8気筒(Y40型エンジン)で対処する松尾の私案もあったが、どちらも市販化には至っていない。スケッチで終わったモデルには吉田のデザインしたレース仕様のものや松尾のデザインした4人乗りスポーツワゴンなどもあった。このうちスポーツワゴンにおいては松尾が1966年に描いたスケッチをもとに、松尾の協力のもと米在住で自動車レストア専門家の安宅二弥によって1台だけ再現され、2014年8月サンディエゴの日産主催のZコンベンションにてお披露目された。この様子は米国二スモのサイトでも紹介された。70年代当時、2ドアのシューティングブレーク(スポーツワゴン)はヨーロッパの市場では各メーカーが製造していたが、製造コストの課題と、2ドアクーペの製造の優先でスケッチのみで終わった。松尾がプロトタイプまで作っていた2+2 (2by2)モデルは居住性と使いやすさを追求しているところが随所に現れており、ほぼそのままのデザインで生産タイプとなった。
1996年に北米での300ZX(Z32型系)の販売が中止になった後、ファンからの要望で北米日産が新品・中古パーツを集めてレストアして240Zを限定販売する企画が立ち上がり、ビンテージZと名付けられて販売された。しかしレストアには予想以上の費用と時間がかかり採算が合わない上、応募者が殺到したため、当初200台の予定が39台にとどまりその後中止となった。またビンテージZには受注ベースの車両もあったことと、全て地元の板金工場やショップが仕上げた為、個々の車体の仕上がりや仕様には様々なものがある。
日本国内における当時の新車販売価格が廉価版の「Z」が84万円、「Z-L」が105万円とスポーツカーとしては比較的安価であったことで爆発的にヒットした。「432」は182万円、後に追加された「240ZG」は150万円であった。
第16回東京モーターショー(10月24日)開幕での初公開に先駆け、10月18日に発表され、11月より販売が開始された。
日本国内では「Z」「Z-L」「Z432」の3グレードが発売された。
「Z」「Z-L」はSUツインキャブレターを装備したSOHCのL20型エンジンを搭載。Zはベースモデルで4速MT。Z-Lは5速MTを搭載し、AMラジオ付きカーステレオ、助手席フットレスト、リクライニングシートなどの装備を充実させたモデル。
Z432は旧プリンスで開発したソレックス3キャブを装備したDOHCのS20型を搭載した高性能バージョン。
「432」のネーミングは、「4バルブ・3キャブレター・2カムシャフト」の意であり、搭載されるS20型エンジンの構造に由来する。
また、カタログモデルとして競技用ベース車両で公道走行不可の「Z432R」も用意された。
アメリカとイギリスでは2.4LのL24型エンジンを搭載した「ダットサン240Z」(HLS30 / HS30型)を発売。
フェアレディZ-Lに3速AT(ニッサンフルオートマチック)車を追加。それまでハイオクガソリン仕様のみであったが、レギュラーガソリン仕様車も全グレードに追加発売された。L20はハイオクガソリン仕様130ps、レギュラーガソリン仕様125ps。S20はハイオクガソリン仕様160ps、レギュラーガソリン仕様155ps。
フェアレディZにも3速AT車を追加および細部のマイナーチェンジ。Z432生産中止(販売は1973年まで継続)。それに代わって、それまで輸出専用であったL24型エンジンを搭載した「フェアレディ240Z」「フェアレディ240Z-L」「フェアレディ240Z-G」を日本国内でも追加発売。240Z-Gには「グランドノーズ」(後年の通称“Gノーズ”:ただしカタログでは“エアロダイナ・ノーズ”)と呼ばれるFRP製のフロントバンパー一体型のエアロパーツとオーバーフェンダーが装着された。
2.0Lモデルの「Zシリーズ」をマイナーチェンジ。昭和48年排出ガス規制適合、ダッシュボードの意匠変更とテールランプとリアガーニッシュの変更が施され、バックランプがガーニッシュ内に配置された。折からの公害問題やガソリン高騰などにより、240Zシリーズを生産中止した。
全長を310mm延長した、4人乗りモデルを追加(GS30、1月17日発表・発売)。2by2と称した。輸出モデルは従前の2.4Lから2.6LのL26型エンジンの変更で排気量アップした「ダットサン260Z」(RLS30)に変更。260Zは一部を国内基準に適合させ、当時右側通行だった沖縄で販売されている。日本国内でもL26型エンジンを搭載した「フェアレディ260Z」の発売を予定していたが、オイルショックなどの影響で断念している。
昭和50年排出ガス規制の施行に伴い、SUツインキャブからL20E型(ドイツ・ボッシュ開発のL-ジェトロニック式電子制御燃料噴射装置・ニッサンEGI)に変更、同時に排気系に触媒を有する、排気ガス浄化システム「NAPS(ニッサン・アンチ・ポリューションシステム)」を装着。型式が「A-S30・A-GS30」となる。輸出モデルは従前の2.6Lから2.8LのL28E型エンジンの変更で排気量アップした「ダットサン280Z」(HLS30)に変更。ニッサンEGIシステムであるが、触媒などの排気ガス浄化システムは装着されていない。北米モデルは5マイルバンパーと呼ばれるショックアブソーバ付きの大型バンパーを装着。
Z-LをベースにFM/AMマルチカセットステレオ、電動式リモコンフェンダーミラー、パワーウインドウなどを追加装備した上級グレードの「フェアレディZ-T」を追加。アルミホイールをオプション設定。昭和51年度排出ガス規制の施行に伴い、排気ガス還流装置 (EGR) などを追加装備。型式が「A-S30・A-GS30」から「C-S31・C-GS31」と変更。
S130型へのフルモデルチェンジにより生産終了。生産台数は6万6291台。
2代目の生産台数は5万1737台。
AT車にシフトロックを追加。
2002年(平成14年)7月30日 発表
2000年9月の Z32型 販売終了以来、カルロス・ゴーンがCOO就任後の日産リバイバルプランの象徴の一つとしてZ33型が2年ぶりの復活となった。
ボディタイプは、クーペ と ロードスター(オープンルーフ)の2種類でいずれも2シーターのみの設定である。歴代フェアレディZに設定されていた2by2は廃止されスカイラインクーペ(CV35)がその代替を担った。
搭載するエンジンは、排気量3.5LのV型6気筒DOHC自然吸気エンジンのVQ35DE型で、最高出力は当初こそ自動車馬力規制の影響で280psだったが、年次改良を重ね規制撤廃も相まって、最終的にはVQ35HR型を搭載し313psまで向上された。
2008年11月
販売終了。
2008年(平成20年)12月1日 発表
復活後初のフルモデルチェンジを行い、6代目 Z34型となった。
先代モデルをさらに進化させたモデルで、変速機、ボディなどを煮詰めた。 エンジンは、排気量3.7LのV型6気筒であるVQ37VHRを搭載し、336PSを発生させる。モデルライフ途中でロードスターが遅れてフルモデルチェンジした。
ブロードウェイミュージカルの『マイ・フェア・レディ』に感銘を受けた川又社長が、クルマにも洗練されてゆく美しさを求めた名前といわれる。「FAIRLADY」は貴婦人、「Z」はアルファベットの最後の文字であることから究極を意味する。また、初代開発スタッフに、当時のアメリカ日産社長片山豊がZ旗を贈ったエピソードもある。
ちなみに、日産ノースアメリカがこの車にちなみ「z.com」というドメインを所持していた(以前はフェアレディZのページへ転送されたが、後にHTTPでのアクセス用としては利用されなくなり、最終的に2014年11月にGMOインターネットに売却された)。
日産自動車グローバル本社(銀座4丁目交差点角にもショールームが存在)に置かれている日産自動車の直営ショールーム「日産ギャラリー」内にいるコンパニオン(ショールームスタッフ)は、「ミス・フェアレディ」と呼ばれており、日産自動車の顔として活躍している。また、東京モーターショーや新車発表披露会、各種イベントでもコンパニオンとして活躍している。
当初はS20登載のZ432とL24搭載の240Zを並行してレース用に開発していた。
先にデビューしたのはZ432だったが、常用8000回転という高回転時の振動は多くのトラブルを生んだ。
加えて同じ排気量では同社のスカイラインGT-Rと食い合う事になる。そこでZはワンクラス上で戦う事になった。
240Zは常用7000回転と高回転は苦手だが大排気量でトルクが太く乗りやすいマシンであった。
何よりも高回転まで回さないから振動が減った。神経質なS20と違ってメンテナンスも楽で燃費も良く、
Z432のエンジンをL24に載せ換えるレーサーも少なくなかった。次第にレースの主役は240Zになっていった。
なお、レース用のオプションとして、L24をクロスフロー化するシリンダーヘッド(LYヘッド)が300万円で設定された。
S130型からは、レース活動の主軸を北米に移し、ポール・ニューマンによってIMSA-GTOに活躍の場を見出した。IMSAの統括団体の解散に至るZ32型まで、北米でのレース活動が継続された。
1985年、3代目(Z31)300ZXターボが全日本ラリー選手権年間総合優勝。ドライバーは神岡政夫。
1987年、Z31型200ZR-Iで参戦。
Z32がIMSAに1990年から参戦。エンジンはプレジデントに搭載していたV8エンジンを搭載。ドライバーはスティーブ・ミレン。1992年と1994年、ドライバーズとマニュファクチャラーの両タイトルを獲得。 また1994年はデイトナ24時間レース、セブリング12時間レースで優勝、ル・マン24時間レースでも総合5位・クラス1位を獲得。
1972年にS30型240ZGのパトカーが日産より神奈川県警察高速道路交通警察隊に寄贈された。当時は“最強のパトカー”ともいわれ、1980年まで活躍した。その後S130型、Z31型、Z32型、Z33型と代替わりしていった。1992年に導入されたZ32型は寄贈された車両であり廃車できなかったため2004年ごろまでは現役であり、2006年にZ33型のパトカーが導入された。またS30型の240ZGのパトカーは車両が廃棄されず残っており、県警交通安全センターで展示されていたが閉館したため県警が保管していた。現在は日産自動車に返還され、座間事業所内の座間記念車庫に保管されている。また、県警交通機動隊には白色のGS30型にボンネット上のウインドウォッシャー、バッテリー交換用の開閉部をリトラクタブルライト型の赤色灯にするという改造を施した覆面パトカーを1974年に配備している。
1975年には当時三重県警察本部長であった佐々淳行が、部下から「東名阪自動車道で『三重県警のパトカーはオンボロで違反車に追いつかない』と、ドライバーがスピード違反を平気でしている」と聞き、更新予定であったパトカー8台分の予算を使って高速道路の上下線用に各1台、計2台のフェアレディZを導入した。この車両は今までの同県警高速隊の車両(佐々の著作によると『トヨペット・カスタム』)では逃げられてしまっていた悪質速度違反車の取り締まりに絶大な効果を発揮し、またこのことはドライバー間でも話題となり、ついに三重県の高速道路からスピード違反が一掃された。
2007年にはZ33型Version NISMOが栃木県警高速隊本隊に配属され、東北自動車道で運用されている。
2016年にはZ34型NISMOが警視庁高速隊に導入された(2004年型マツダ・RX-8の後継車種)。
他にも大阪府警察でも導入されたことがある。